岡山というと、どういうイメージがあるのだろうか。
一般には、桃太郎、きびだんご、マスカット、ままかり、
後楽園、倉敷美観地区、大原美術館、
吉備路、竹久夢二
などが知られているのではないだろうか。
岡山は、県北と県南で季候、風土、人間性まで大幅に異なると言われている。
県北は横溝正史の『八つ墓村』のような恐ろしい世界か
どうかさえ県南で育った私は知らない。運転免許を取ってすぐのころ、
国道を通って県北まで遊びに行ってみようと思ったが、道路脇に
「初心者通るべからず」の立札があり、
恐くなって引き返した。
それ以来、県北には近づくことさえしていない。
せいぜい、高速バスで帰省したとき、通過したくらいだ。
2006年11月に、県北の中心地津山市と岡山市を結ぶ
JR津山線で落石事故があり、復旧工事が難航している。
鉄道だけでなく道路も不通となり、県北との往来は困難な情况にある。
生まれた県南は、瀬戸内海のほぼど真中で、瀬戸大橋児島坂出ルートの
児島である。昔は児島市だったのだが、
現在は倉敷に合併されたことになっているが、
児島の人間は今でも倉敷の一部だと意識していない者が多い。
そもそも合併の動機が不純である。
高梁川河口の浅瀬を埋め立てて水島コンビナートを作ろうとしたのだが、
そのとき倉敷市、児島市、玉島市の境界線が不明になった。
つまり、境界問題を合併でもみ消した訳である。
倉敷は備中国、児島は備前国で、歴史も季候もかなり異なる。
生まれた家はとても古い。
いつ建てられたかはっきりした記録もない。
江戸の中期頃で、1700年代中頃と思われる。
こんな古い家なので、私が生まれた頃と今とでも、
古さに違いはあまりない。
梁は太く曲った木をそのまま使っている。
昔の大工は、こんな曲った木をそのまま使って
何百年も持つちゃんとした家を建てるのだから優秀だったと思う。
田舎では、200年程度の古さの家はいくらでもあるので、
この程度では文化財にも何にもならない。
瀬戸大橋の真下に広がる下津井という港町は、
奈良時代から栄えていた風待ち港で、
文化財候補で溢れている。
うちの寺は、697年開基し、
延暦23年(804)に坂上田村麿が再興したと伝えられている
真言宗御室派のとても歴史の在る寺で、
総本山の仁和寺は仁和2年(886年)に創建に着手したのだから、
総本山よりよほど由緒正しい寺らしい。
先代の住職は、晩年は総本山の高僧になられたが、
そんな偉い方だとはつゆ知らず、いつも適当に挨拶していた。
この寺で、なんとクリスマスパーティをやったことさえあり、
寺の息子も参加した。
10年ほど前、自宅の蔵の中を整理していたら、『明治新刻 廣集玉篇大全』
という木版の字引きが出土した。今から110年前の木版の字引きだ。
この辞引きを探し当てた頃、日本語情報処理、漢字情報処理の
仕事をしていたのも何かの因縁を感じる。

【蔵から発掘された字引「廣集玉篇大全」】
こんな家だが、小学生のころから
鋸、金槌、鉋、ドライバー、ペンチはもちろん、
半田ゴテ、万力、グラインダー、バールなども転がっている中で育った。
お陰で、買ってもらった玩具はその日の内に分解し研究しつくした。
プログラムを作り始めたころも、同様にして延々と解読する日々で、
こういう習性は子供の頃についてしまったようだ。
先日、屋根に穴が開いたと連絡が来た。
戦後防空壕の材木などを利用して増築したとか聞いている部分で、
作りが悪く、たった60年しか持たなかったようだ。
母屋の瓦は35年程前に葺き直し、まだ新品同様なので、
私が生きている間は大丈夫でいてくれと祈っている。
母屋の2階には2つ部屋があるのだが、
一方の部屋へは生まれてから一度も入ったことがない。
昔は上がるための階段を天井から下ろすようになっていたが、
その階段がいつの間にか無くなっている。
この部屋は古いので何かヤバイ物が出てくるかも知れないので
当分放置の予定だ。
カニの折り紙
正方形の紙を折っただけで、ハサミは使っていない。
非常に薄くて丈夫な和紙でないと無理だ。
コンピュータを始めてからは時間がなく、こういう複雑な
折り紙はまったくしていない。
実は現在、国の支援で日本文化の代表である折り紙の
コンピュータシミュレーションの研究が行なわれている。