今回は、勉強について書いてみよう。といっても、コンピュータとか科学、工学という狭い範囲にとらわれず、もっと役に立ったり、面白かった勉強について、そこはかとなく書きつくろってみよう。
徒然草を最初に知ったのは、たぶん中学生のころだったと思うが、記憶は曖昧である。高校になると古典の授業があったのだが、その頃は国語が最大の苦手科目であった。人が考えていることなど知るものかと思っていた。入試に出題された問題の作家が、私はそう考えて書いていないなどの発言がよくあるように、分かる方がおかしいのである。
高校1年の夏休みの課題の1つが、徒然草をしっかり読んでおけというものだった。もちろん、嫌々ながら勉強を始めたら、なんと意外と面白いことが分かった。兼行の書いていることは、一般的な視線ではなく、物事の本質を見抜いた内容だったり、それでいてかなり世間を、あるいは仁和寺の坊主たちをおちょこくっている(からかう)のが何とも面白く、ついついどんどん読んでしまったのであった。
夏休み明けに、待ち構えたように徒然草の試験が行われた。内容よりも文法的なものが中心だったと思うが、もうよく覚えていない。
古典の先生は、こっちが国語なんか大嫌いというオーラを出していたのをよく知っていたのだが、自分でも信じられないことに満点だった。こんな奴が満点を取っているのだから、皆の者、ちゃんと頑張れと引き合いに出されてしまった。
しかし、古典の授業は徒然草だけではない。いろいろな古典文学を読まされて、それらは自分の感性とはまったく合わず、当然勉強もせず、大学受験には古典が出題されない大学はどこかと調査して受験した。
徒然草は本当に良い座右の書である。人間は、本当に簡単なところでミスを冒すものだという指摘がいっぱい出てくるのだが、思い当たるふしだらけで、何度読んでもためになる。
高校の参考書売り場に行って、徒然草の本を手に取ってみたらCD付きだった。
学習参考書は、普段読む本に比較すると、とても安いのでつい買って聴いてみた。しかし、ほんの少ししか採録されていない。最近はこんな少量をつまみ食いするだけの勉強しかしていないのかと思い、古典文学CDのコーナーに行き、せめて2枚以上のCDになっているものを探して、新潮社の、寺田農朗読のを入手した。
休日には、このCDを聴きながら、朗読のテンポに合わせてのんびりと散歩している。
徒然草は今から680年ほど前、鎌倉時代の末期の随筆だが、今でも十分に通用するどころか、人生指南書、さらには経営指南書として引き合いに出されている書物である。雑文を書くのでも、この位長きに渡って認められる本を書きたいと、ありえないことを考えながら聴いている。