「車輪の再発明」という言葉がある。これは、頑張って考えて発明したら、実はとっくに誰かが発明済みだったということで、
そのためには、ちゃんと勉強しておけという戒めである。
本はそれなりに読んでいると思うが、賢くなりたいと思っているわけではないし、いまさら手遅れだ。
そう思っているときに、こんな本を読んだ。
『人間は考えても無駄である』というとても深遠な哲学的な題名がついている。
高校の先輩の土屋賢二お茶の水大哲学科教授の本で、
「人間はどこまで賢くなったか」というテーマの対談集だ。
この対談の結論がタイトルになった。
(後輩として「この本は読んでもためにならない」ことをここに保証する)
人間が、考えたり勉強したりするくらいで賢くなるものであろうか。
それよりも、DNAを直接いじるとか、もっと脳科学を研究して、そこから得られたことを悪用すると賢くなるかもしれない気はするが、
少々のこと、つまり人間がいくら勉強しても、人間の一生の間の賢さの進歩など微々たるものであるはずだ。
最近は脳科学が盛んである。脳科学を少しでも理解できるようになると、楽をして記憶できたり、
勉強や仕事、あるいは社会の相手をもっと上手にこなせるかと思ったが、まだ研究は十分な成果を出しておらず、絶望的な状況であることが分かった。
要するに、脳について確かに分かったことはあるが、賢くなるための技術開発などまだまだ遠い夢であることが分かり、こちらの夢は消えた。
賢くなるのは無理だが、勉強をすれば、知らないことを少しは知り、過去の人の知恵を横取りできて、
横着をして仕事を片付けることができるのではないかと考えるようになった。要するに考える行為をケチることができるはずだ。
記憶は、いまやコンピュータに任せておいた方が、自分の頭よりははるかに信頼がおける。
1台のコンピュータでは不安だと思えば、コピーすれば良いので、記憶に関してはずいぶん横着できるようになった。
普段はプログラムを書いたりしているのだが、何とか短く、わかりやすく、できれば書かないで済ませられないだろうかと考えている。
プログラムを書く以上バグが入る。ならば、書かないようにするに限るではないか。
プログラムを書くことは目的ではなくて、成果がちゃんと出ればよいのだから。
今までに新しい開発手法と言われたものどれもが長続きしない。
結局、究極的なプログラム開発方法を見つけられない困った状態のままだ。
自分の勉強を自己分析してみると、まず面白いかどうかが最優先になっているようだ。
面白くないものは続いたためしがない。面白い本なら1000ページも苦にならないが、つまらないと数ページでも苦痛である。
資格を取るためどころか、子供の頃から受験勉強とか試験勉強をする人の気持ちが分からなかった。
今も、もちろん分からないままであり、一生分からないままでいたいと思っている。
そんな訳で、「真面目に勉強する」という意味が理解不能である。努力しないでも良いように勉強している身にとっては、世の中不可解なことばかりだ。
面白ければ有益でなくても十分な理由だ。面白い以上の理由など不要だ。
そうでなければ、楽できる、横着できるなど十分な理由が必要だ。
しかし、横着したくて良い秘策はないものかと本を読み荒らしているが、秘策が見つかる気配さえない。
今回はここまで。やれやれ、やっと終わった。次からはゴーストライターを用意したいものだ。