社員リレーブログ

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2009/11/20 00:00:00

横着するために勉強

「車輪の再発明」という言葉がある。これは、頑張って考えて発明したら、実はとっくに誰かが発明済みだったということで、 そのためには、ちゃんと勉強しておけという戒めである。

本はそれなりに読んでいると思うが、賢くなりたいと思っているわけではないし、いまさら手遅れだ。 そう思っているときに、こんな本を読んだ。

『人間は考えても無駄である』というとても深遠な哲学的な題名がついている。 高校の先輩の土屋賢二お茶の水大哲学科教授の本で、 「人間はどこまで賢くなったか」というテーマの対談集だ。 この対談の結論がタイトルになった。 (後輩として「この本は読んでもためにならない」ことをここに保証する)

人間が、考えたり勉強したりするくらいで賢くなるものであろうか。 それよりも、DNAを直接いじるとか、もっと脳科学を研究して、そこから得られたことを悪用すると賢くなるかもしれない気はするが、 少々のこと、つまり人間がいくら勉強しても、人間の一生の間の賢さの進歩など微々たるものであるはずだ。

最近は脳科学が盛んである。脳科学を少しでも理解できるようになると、楽をして記憶できたり、 勉強や仕事、あるいは社会の相手をもっと上手にこなせるかと思ったが、まだ研究は十分な成果を出しておらず、絶望的な状況であることが分かった。 要するに、脳について確かに分かったことはあるが、賢くなるための技術開発などまだまだ遠い夢であることが分かり、こちらの夢は消えた。

賢くなるのは無理だが、勉強をすれば、知らないことを少しは知り、過去の人の知恵を横取りできて、 横着をして仕事を片付けることができるのではないかと考えるようになった。要するに考える行為をケチることができるはずだ。 記憶は、いまやコンピュータに任せておいた方が、自分の頭よりははるかに信頼がおける。 1台のコンピュータでは不安だと思えば、コピーすれば良いので、記憶に関してはずいぶん横着できるようになった。

普段はプログラムを書いたりしているのだが、何とか短く、わかりやすく、できれば書かないで済ませられないだろうかと考えている。 プログラムを書く以上バグが入る。ならば、書かないようにするに限るではないか。 プログラムを書くことは目的ではなくて、成果がちゃんと出ればよいのだから。 今までに新しい開発手法と言われたものどれもが長続きしない。 結局、究極的なプログラム開発方法を見つけられない困った状態のままだ。

自分の勉強を自己分析してみると、まず面白いかどうかが最優先になっているようだ。 面白くないものは続いたためしがない。面白い本なら1000ページも苦にならないが、つまらないと数ページでも苦痛である。 資格を取るためどころか、子供の頃から受験勉強とか試験勉強をする人の気持ちが分からなかった。 今も、もちろん分からないままであり、一生分からないままでいたいと思っている。

そんな訳で、「真面目に勉強する」という意味が理解不能である。努力しないでも良いように勉強している身にとっては、世の中不可解なことばかりだ。

面白ければ有益でなくても十分な理由だ。面白い以上の理由など不要だ。 そうでなければ、楽できる、横着できるなど十分な理由が必要だ。 しかし、横着したくて良い秘策はないものかと本を読み荒らしているが、秘策が見つかる気配さえない。

今回はここまで。やれやれ、やっと終わった。次からはゴーストライターを用意したいものだ。


2009/11/19 00:00:00

フランス語再入門

MITの聴講などをやっていたら、 英語以外の語学の復習をやってみたくなった。 もうかなり昔のことになるが、フランス語に手を出したことがある。 せっかく東京にいるのだから、英語の失敗を繰り返してはいけない。 初めからフランス人よりフランス語だけを使って学ぶべきだ、と考えた。

そして、若気のいたりで、なんとそれを実行してしまった。 語学は大の苦手なのに、つい勉強してしまい、日常会話プラスアルファくらいはできるようになってしまった。

そのときの仲間には、フランス語だけではなく、サンスクリットから楔形文字まで研究するような奇人変人がいた。そこで知り合った一人は、「これから毎年1言語ずつマスターするから」と言った。当時でも複数言語で異なる内容が同時に話されているのを聞き分けていたが、それでも毎年1言語は不可能と思っていた。しかし、20年ぶりに再開したときには、30ヵ国語位で芸術から政治まで討論するような飛んでもない人になっていた。

フランス語を習ったフランス人男性の先生の授業は、ニセ受講生が多過ぎることで有名だった。まるで落語を聞いているようで、熱血物理学教授のフランス語版だった。有名私立大に移り、フランス語の辞書を編纂し、フランス語の教授達を指導するほどになってしまった。当時は、ただ面白い授業だとだけ思っていたのだが、実は大変な人に偶然教わることができたのだが、残念なことに亡くなられた。

さて、自分のフランス語は、数十年の間に完全に錆びついてしまった。このまま完全に錆つかせるのはもったいないと思い、フランス語のCDや本をちょっと読んでみたら、音は大丈夫のようだったが、語彙や文法が頭から完璧に抜け落ちているのが分かった。

フランス語講座を駆け足で読んで聞いて、それからいろいろな本を読んでみた。もちろん、最初はとてもやさしい本からだが。

フランス語というと、どうしても「星の王子さま」を読む人が多い。 しかし、この本は非常に難しい本である。 誤訳の多いことで有名な「星の王子さま」を素人が読めるものではない。

実際にフランス語で読んだ本の代表は、ル・プチ・ニコラ(Le Petit Nicolas)である。直訳すれば「小さなニコラ、かわいいニコラ」であるが、 訳書の題名は「わんぱくニコラ」になっている。

公式サイト

小学生の悪ガキが、仲間と起こす騒動が挿絵とともに書かれていて、 フランス人なら誰でも知っている本である。

まあ、9歳向けというので、 こちらの頭の程度(若さ)とぴったり合うのかもしれない。

最近、「地下鉄のザジ」というフランス映画が上映されているのを見つけたので観てきた。地方からパリに遊びにきた母娘の娘がザジで、おませでおてんばなのだ。とんでもないドタバタ喜劇なので、フランス語を理解できなくても十分楽しめる映画で、台詞が予想外に少なかった。

映画公式サイト

実は、本映画の原作の本も入手したのだが、まだ読み始めていない。 これも何とかしなければと考えているだけで、本棚の肥やしになっている。

まだ、フランス語は子供の本を読める程度に過ぎない。なんとか昔のレベルに戻したいと思っている。きちんと勉強するのは嫌いなので、面白い本を読んだり(理解できない箇所は無視)、映画を楽しんだりするだけで何とかならないか。とくに語彙を覚えるような面倒な作業は嫌いなので、何か奇策はないだろうかと、不可能なことを考えている。


2009/11/18 00:00:00

MITでアルゴリズム

コンピュータ、とくにソフトウェアにおいては、アルゴリズムはとても重要だ。プログラミング言語を覚えて使いこなせるだけでは、所詮使い捨てプログラマにしかなれない。

そう思ったかどうかは忘れたが、ソフトの勉強を始めたころ、アルゴリズムの本をできるだけ読むようにした。しかし、それは最初だけで、次第にいろいろな研究やら開発やら雑用に巻き込まれるうちに、アルゴリズムの勉強はなおざりになってしまった。

これではいけないと思って書店に行っても、実はそれほどよいアルゴリズムの本が出ていない。それに、アルゴリズムの勉強は、他の勉強に比較してとても時間がかかる面倒な勉強で、書籍も売れないため読みたくなるような本も見当たらない。 残念ながら、日本人が書いたアルゴリズムの本でこれはというのがない。今、たぶん世界的にも非常に評価が高いのは、MITプレスから出版されている「アルゴリズム入門」ではないかと思う。

本書は1000ページあまりあるとても分厚く重い本で、到底持ち歩くことはできない。本屋で原書を見て、あまりの重さに買うのを止めた。しかし、これでもアルゴリズムの代表的な分野について書いているだけで、題名どおり入門書である。

本書は、日本語にも翻訳されているが、訳本は3分冊になっており、3冊目は旧版の訳である。つまり、なかなか売れていないのである。

…ということくらいは知っていたのだが、MITが、大学の講座を次々とインターネット上に公開していて、講座数が1900を越えている。日本の大学のみみっちい公開の仕方とはまるで違い、あらゆる講座を無料聴講可能にしている。さすがMITというところか。

Free Online Course Materials | MIT OpenCourseWare

この中に、このアルゴリズムの授業が存在するのを発見し、MITではどんな風にアルゴリズムを教えているのか覗いてみた。そうしたら、この本をテキストとしている授業があった。

Introduction to Algorithms

講師は2名で、Leiserson教授は本書の著者の1人だ。そして、チェスプログラミングでも非常に有名人だったので、これは聴講してみようと思うに至った。もう1名のDemaine教授は早口で聞き取るのが大変だったりしたが、こちらもtranscript(講義の筆記録)が用意されていたので助かった。

テキストは買わないとダメかと思いながら聴き始めたのだが、ネット上にものすごい大量のドキュメント、プレゼン資料があり、テキストを買わなくても済むことが分かった。

ソート、マージ、最短経路などが中心であった。もっと幅広く色々なことを勝手に期待したのであったが、入門コースにそれは期待し過ぎというものだろう。

久々にアルゴリズムを勉強した。たんなる思い込みだと思うが、これでまた何十年かプログラムを書きつづけられるような気になった。


2009/11/17 00:00:00

熱血物理学教授

これでも一応理系だったので、数学とか物理とかも勉強したはずなのだが、長い間にすっかり頭の中から抜けてしまった。これではいけない、バカになると思って、少々勉強しようと思い立った。これで、通信講座を受けるとか、大学や大学院に入るとかするなら普通だろうが、続けられるかどうか分からない。それに、今の時代、インターネットがこんなに発達しているのだから、ものすごく良い公開講座がどこかにあるはずだと探してみた。

それで、偶然見つけたのが、熱血物理学教授がやっている古典力学の講義だった。授業をそのままビデオに撮って、まるごと公開している。講義は全部英語で行われるのであるが、transcript(講義の筆記録)が用意されているので、英語がたいしてできなくても何とかなる。MITの授業の1つであり、ネットで無料で聴講できるので、たとえ挫折しても痛くも痒くもないので始めてみた。

授業は1回50分弱くらいだが、全部で35回もあり、それだけで挫折しそうになる。初回は単位系の話だったりして、まあこんなものかと思ったのだが、2回目以降、どんどん授業中に様々な実験が行われる。

この写真は、振り子の等時性を示すために、教授が錘となって、教壇のところでゆらゆら揺れているところである。教授が錘となっても、周期に変化がないことを示す実験だ。精度をあげるために、10周期を測定しているので、教壇の上で10回も揺れていて、学生たちはあっけに取られている。

物理では、弾丸がどのように飛ぶかについて議論されることが多いが、実際にライフルを持ってきて射った。最新の計時技術で、弾の速度を求めた。後の授業で、昔はどうやって弾の速度を求めたかの実験をやった。

その他にも、様々な、とんでもない実験をいっぱいやってくれる。危険な実験もかなりあるが、一方で誰でも簡単にできて「なぜ?」と思わせる実験をする。実験はどんどんするのだが、理由は自分で考えろということで理由説明はほとんどない。

一つ簡単な実験(手品)を紹介しておこう。口が平らなガラスコップと、平らな蓋と水(液体)があればできる実験だ。

  1. まず、コップに液体を半分ほど入れて、上に蓋をする。
  2. 蓋を手で持って押さえ、コップを上下逆さまにする。
  3. 下から蓋を押さえている手を離す。

これで、コップを上から持っているだけで、水は蓋の上、コップの内側に残り、水浸しになったりはしない。ぜひ、年末のかくし芸としてやってみよう。なお、あまり平らでないコップや板を使った場合は、うまくいかない。万一失敗しても、当方の責任ではなく、物理を理解して実験をしなかったのが悪い。

それにしても、こんなに呆れ返るほど面白い熱血物理学教授がいれば、もっと物理を勉強したのにと今更悔やんでも仕方がないか。

8.01 Physics I: Classical Mechanics


2009/11/16 00:00:00

徒然草

今回は、勉強について書いてみよう。といっても、コンピュータとか科学、工学という狭い範囲にとらわれず、もっと役に立ったり、面白かった勉強について、そこはかとなく書きつくろってみよう。

徒然草を最初に知ったのは、たぶん中学生のころだったと思うが、記憶は曖昧である。高校になると古典の授業があったのだが、その頃は国語が最大の苦手科目であった。人が考えていることなど知るものかと思っていた。入試に出題された問題の作家が、私はそう考えて書いていないなどの発言がよくあるように、分かる方がおかしいのである。

高校1年の夏休みの課題の1つが、徒然草をしっかり読んでおけというものだった。もちろん、嫌々ながら勉強を始めたら、なんと意外と面白いことが分かった。兼行の書いていることは、一般的な視線ではなく、物事の本質を見抜いた内容だったり、それでいてかなり世間を、あるいは仁和寺の坊主たちをおちょこくっている(からかう)のが何とも面白く、ついついどんどん読んでしまったのであった。

夏休み明けに、待ち構えたように徒然草の試験が行われた。内容よりも文法的なものが中心だったと思うが、もうよく覚えていない。 古典の先生は、こっちが国語なんか大嫌いというオーラを出していたのをよく知っていたのだが、自分でも信じられないことに満点だった。こんな奴が満点を取っているのだから、皆の者、ちゃんと頑張れと引き合いに出されてしまった。

しかし、古典の授業は徒然草だけではない。いろいろな古典文学を読まされて、それらは自分の感性とはまったく合わず、当然勉強もせず、大学受験には古典が出題されない大学はどこかと調査して受験した。

徒然草は本当に良い座右の書である。人間は、本当に簡単なところでミスを冒すものだという指摘がいっぱい出てくるのだが、思い当たるふしだらけで、何度読んでもためになる。

高校の参考書売り場に行って、徒然草の本を手に取ってみたらCD付きだった。

学習参考書は、普段読む本に比較すると、とても安いのでつい買って聴いてみた。しかし、ほんの少ししか採録されていない。最近はこんな少量をつまみ食いするだけの勉強しかしていないのかと思い、古典文学CDのコーナーに行き、せめて2枚以上のCDになっているものを探して、新潮社の、寺田農朗読のを入手した。

休日には、このCDを聴きながら、朗読のテンポに合わせてのんびりと散歩している。

徒然草は今から680年ほど前、鎌倉時代の末期の随筆だが、今でも十分に通用するどころか、人生指南書、さらには経営指南書として引き合いに出されている書物である。雑文を書くのでも、この位長きに渡って認められる本を書きたいと、ありえないことを考えながら聴いている。


2008/09/05 00:00:00

囲碁

囲碁を始めたのは大学生になってからだ。 田舎が非常に将棋の盛んな地域だったので、 将棋では誰にも勝てないという思いもあり、 また将棋は日本だけのもので国際性がないと思ったかどうかもはや記憶にないが、 とにかく囲碁を始めた。

最初は、本を買ってきて読んで、友達を引き込んでやっていた程度であったが、 やはりそれでは全然面白くない。といって、大学の囲碁部に入って修行するほど 熱心にはなれなかったし、囲碁部に入ったら最弱メンバーになってしまい、 それはそれで面白くない。

というので、本で勉強しては、たまに碁会所にいっていたが、 せっかく東京にいるのだから囲碁の総本山に行ってみようと思い立った。 あの『ヒカルの碁』でもよく出ている日本棋院本院である。 そこに行くと、段位級位認定大会というのがあって、たくさん勝つと上にいけるようだったので、 何級から参加したのか忘れたが、通い始めた。 さすがに最初のうちは簡単に上にいけた。 そして、初段戦になったが、初段以降は昇段が一気に厳しい。 それでも何とか連勝を重ねて、もうすぐ初段というところまでになった。

しかし、ちょうどそのころから忙しくなり、囲碁をやる暇がなくなってしまった。 久しぶりに認定大会に参加したら、連敗してしまった。 囲碁の勉強も怠ると実力が下がってしまうし、試合勘もなくなってしまうことを 身をもって体験し、そして囲碁の試合からは遠ざかってしまった。

コンピュータの世界に入り、囲碁のプログラムができると良いなと夢のようなことを考えて 何十年か過ごしてきた。 しかし、どうすれば強い囲碁プログラムが作れるのか、何の考えもまとまらないまま時は過ぎた。

最近は、簡単な囲碁のプログラムのソースは公開されていたり、 書籍になっているので、読んでみた。次の手をどこに打つかは非常に難しい。 将棋と比較するとはるかに自由度が高く、とりとめのがない。 プログラムを見ると、非常にいい加減な判断で打つようになっていたが、 それでも広い所に打つ、相手の石と自分の石との位置関係を考えてある式が最大になるように するとか、乱数を使ってある程度でたらめにするとかあったが、まれに良い手を打つようだった。 しかし、囲碁は、途中で下手な手を一手でも打てば、取り返すのは困難で、勝負が決まってしまう。

最近は、パソコンの囲碁プログラムも1万円位出せばかなり強くなってきたようだ。 先日、アメリカ囲碁協会で、プロとコンピュータ囲碁プログラムとの対戦があった。 まだ到底対等に戦うのは無理で、コンピュータが9つも黒石を置くというハンディ戦 だったが、コンピュータが確実に勝ちだしたのである。 この実力は、アマチュアの二段程度ということだった。 ということは、私が対戦すると、もしかして負けるかも知れない。

コンピュータ囲碁だけではなく、人間のプロにも会っておかねばと思っていたら、 なんと結婚式で日本棋院の理事に会ってしまった。 相手方は、なんと本因坊家の血筋らしい。理事に挨拶したら、名刺をいただいた。 裏面には詰碁をその場で創作して渡せるように、碁盤の一部が印刷してあった。

今年の新春は、『ヒカルの碁』を体験したいとつい思ってしまい、 梅沢由香里の公開対局を見に行った。対戦相手は小学校3年の藤沢里奈ちゃん。 たった3つしか黒石を置かずに打って、里奈ちゃんが善戦した。 激しい、厳しい戦いで、妙手がやたらに出た。 ただ者ではない里奈ちゃんは、異常感覚の持ち主と言われた 藤沢秀行名誉棋聖の孫で、いつプロになるかが期待されているサラブレッド。

あまりにも自分との感性の差を感じ、「さて、仕事のプログラムに戻ろうか」 と思った次第である。


2008/09/04 00:00:00

バックギャモン

こんなゲームを見たことがあるだろうか。

このブログのために、 xgammonというソフトをインストールして勝負してみたところだ。 もちろん、コンピュータを完璧に負かせた場面である。

このゲームを知ったのは、池袋の西武デパートで、何やら新しいらしきゲームの説明会 があるというのをなぜか嗅ぎつけ、説明を聞きに行った。 当時の日本バックギャモン協会の人があれこれ説明してくれた。 というか、当時このゲームに興味を持つ者は非常に少なく、 説明してくれた人が、「ちょっと喫茶店にでも行きませんか」というので、 のこのこ付いていった。

月例会なるものが夜に開催されていて、初心者からベテランまで集まるというのを知り、 何度か出掛けていった。しかし、このときの会場も下宿からずいぶん遠い場所であり、 そのうち足が遠のいてしまった。

ゲーム自体は、双六である。詳しい説明は、 日本バックギャモン協会 の説明を見てもらうことにして、ここではごく簡単に説明しておこう。

2名が白または黒(2つの色なら何でもOKなのだが)になり、それぞれ15個のコマ 全てをできるだけ早くゴールに入れた方が勝ちである。 お互い逆向きにコマを進め、相手のコマが1つしかないところに止まると、 相手のコマは振り出しに戻らねばならない。 開始時のコマの配置は、互いに激しい泥仕合(落とし合い)になりやすいように 決められている。

サイコロの目は偶然であるが、どのコマを動かすか選択の余地があり、 戦略がいろいろ考えられる。激しい戦いにしたり、サイコロの目勝負にしたり、 一発逆転を狙ったりを状況によって考えるゲームである。 強くなるには、確率、期待値の計算をしっかりしないといけない。 逆に、その計算がちょっとでもできるようになると、たいていの人に勝てたり、 コンピュータソフトにも勝てるようになる。 確率、期待値の計算だらけなのに、コンピュータソフトが弱いのは不思議である。

このゲームは、実は非常に古い。古代エジプトが発祥地らしく、 シルクロードを通り、中国、そして飛鳥時代には既に日本で遊ばれていた。 実際、正倉院に聖武天皇が遊んだとされる盤双六が今も存在するはずだ。 源氏物語絵巻などには、囲碁や盤双六に興じている姿が描かれている。

そのように非常に普及したのであるが、サイコロを振るゲームということで、 賭博として遊ばれることが多くなった。 なまぐさ坊主が自分の寺を賭けたり、大きな弊害が多数出て、 禁止令が何度となく出されている。 実際、古文書を読むと、立派な教義などよりも、賭けの証文などがいっぱい出てくるようだ。 人間のいるところ、必ず遊びがあり、賭けがある、ということであろうか。 学術書よりも証文の方が大切に保管され後世に伝わるのは今も昔も変わらない。

現在、バックギャモンはヨーロッパから中近東にかけて広く遊ばれているようである。 日本でも、一時ブームになった時期もあるが、今は静かに、でもしっかり遊ばれている。 このゲームも、ルールくらいは知っている人は多いのだが、 ちゃんと遊べる人は少ない。

日本バックギャモン協会のあった会社のパズルの問題を解いてあげたことがある。 そうしたら、立派なバックギャモンセットをプレゼントされた。 アタッシュケースのような感じであり、 コマもプラスチックの安物ではなく、ずっしりと重く、 ワインでも飲みながらのんびり遊ぶのに最適である。


2008/09/03 00:00:00

オセロとチェス

オセロは、明治期に「源平碁」という名前で普及していて、 オセロという名前で普及する前に遊んだような記憶もあるが定かでない。

オセロはあまり得意ではない。ひっくり返されるのが何度も繰り返されるので、 何手か先を読もうとすると大変だ。 記憶力、集中力をともに必要とする、 人間というか私にとっては楽ではない遊びなのであまり好きになれない。

コンピュータを始めて直ぐ、まだ筑波研究学園都市ができる前のことである。 電子技術総合研究所が首相官邸の近所にあって、遊びに行った。 推論研究室というところで、PHP-11で動く対戦型のオセロプログラムがあった。 盤面はカラーで画面に出るようになっていたが、入力はタイプライター型 の端末からガチャンガチャンと騒音を立てながら入力する代物だった。

実は、これが当時の人工知能の最先端の研究成果の1つであった。 礼儀として、コンピュータの相手をしなくてはいけないので遊んでみたが、 初回は操作に慣れないので負けてしまった。 2回目は、操作にも慣れたので、ちゃんと勝つことができ、 面目を保つことができ、ほっとした。

ついでに、FORTRANで書かれたプログラムをもらってきた。 もちろん当時のことであるから、紙に印刷したものをもらってきて、 その後、どういう風に作っているのかじっくり勉強させてもらった。 もうちょっと強いプログラムが当時の8ビットマイコンでも可能では ないかと思って作り始めたのだが、 仕事に追われて挫折してしまった。

チェスは、ルールは小学生の間に覚えていたと思うが、 遊ぶ相手がいなかった。 将棋が盛んで、わざわざチェスをするのは物好きだけだった。

上京してきてから、洋書店にいくと、チェスの本がいっぱいあるのを 見つけ、読もうと思ったが思っただけで終わった。 結局日本語のチェスの本を何冊か読み、 何とか少しはできるようになった程度である。 東京に来ても、チェスを楽しむ人にはなかなか遭遇しなかった。

コンピュータチェスが盛んになり、1980年代にはマイコンを使った チェス専用マシンも売り出されるようになり、個人輸入して楽しんだ。 というか、とてもプログラムが強くて、レベルを思いっきり下げないと まったく勝てないのであった。ちょっと値段の高いものだと、 日本チャンピオンレベルの能力があるのも分かった。 逆に言えば、日本のレベルが非常に低いということでもある。

1997年には、IBMのチェス専用コンピュータ「ディープ・ブルー」が チェスの世界チャンピオン、ガルリ・カスパロフに勝った。 時間の問題だと思っていたが、これでチェスは人工知能の対象では なくなったかと思った瞬間であった。次は囲碁だなと思った。

『ディープブルー vs. カスパロフ』という本が出ていて、 コンピュータが世界チャンピオンを負かせるまでの話が出ている。 偶然にも、この本を翻訳したチェス日本チャンピオンの鈴木知道氏から 本書をプレゼントされてしまった。 それは、T大学の知り合いの研究室、 ただし工業化学系の研究室ということで危険そうで近づかなかったのだが、 ついケーキを用意してくれるという餌に釣られて訪問したとき、 その研究室の助手をしていたのが鈴木だったのだ。 まったくの奇遇でだった。

「日本では、チェスでは飯は食べられない」とこぼされていた。 同じ遊びをやるのでも、将来性を考えてやらないといけない。 プロの世界があるような遊びはごくわずかに過ぎないことを 身にしみて感じたのであった。 遊びもメジャーを選ばねば。


2008/09/02 00:00:00

連珠

五目並べをして遊んだ人は多いだろう。 道具は囲碁と同じで、碁盤と碁石でできるのだが、 一度置いた石は勝負が決まるまで動くこともなく、取られることもない。 そのため、方眼紙と筆記具があれば遊ぶことができる。

始めたのはいつの頃かはっきりしない。小学校の高学年になってからだろうか、 あるいはもうちょっと早かったかも知れない。 小学校は田舎ということもあり、クラスが小さく先生の目を盗むのが困難で、 遊び時間とか放課後に少しやった程度であったと思う。

中学になって、クラスの人数が多く、席もいつも後ろの方になったので、 授業中に大いにやったものだ。方眼紙に○を描いては相手に渡し、 また受け取っては授業のことで考えるふりをしながら五目並べに熱中していた。

高校ではほとんどやらず、中学の仲間と会ったときだけやる程度で、 単なる時間つぶしであった。

それが変わったのは、大学進学のために上京してからである。 東京には大きな書店があったので、延々と書店の中をさ迷ったものだ。 そういうときに、連珠(れんじゅ)の本を発見した。 どの本か忘れたが、1冊購入し、五目並べとの違いや、 連珠の歴史なども勉強した。

もった早く連珠を知っていればと思ったが、誰も周囲に教えてくれる者がいなかった。 もっともっと知りたくなって、書店で見つけた連珠の本をほぼ全部買ったと思う。 でも、結局全部で3冊くらいだったと思う。

五目並べは時間つぶしとしてやっていただけだが、 連珠は、正式のルールを習得し、練習問題もきっちり解いた。 定石だけを載せた本(『連珠必勝法』新井華石著)もあって、 延々と一人部屋で石を並べてみた。 4手先、5手先を読む訓練もしたが、どんどん枝分かれしていくので、 頭の中で調べるのに限界を感じたものである。

五目並べは、ちゃんとやれば先手(黒)必勝である。 それでは試合にならないので、連珠では最初の3手目までの型で、 まだ先手が勝ちか後手が勝ちか分かっていない型で打ち始める。 また、先手の黒が圧倒的に有利なので、黒には非常に厳しく、白には甘いルールになっている。 したがって、先手の黒は、早い段階で勝ち逃げをしなければ負けてしまう。

夏休みに帰省したとき、中学でよく一緒に五目並べをした友達と 対戦してみた。連珠ではなく五目並べの対戦である。 昔はほぼ互角だったのに、連珠を知り、何手か先まで読む訓練をしているため、 100%勝てるようになっていた。 そして、これだけ大差がついてしまったので、その後五目並べはしなくなった。

周囲に連珠をする者が見つからないし、それでも自分の実力がどの程度の ものか知りたいと思い、連珠の本を出していた日本連珠連盟に電話して、 のこのこと出かけて行った。 すると、著者である坂田吾朗氏に合うことができた。 何度か打ってもらい、さらに他の有段者にも遊んでもらって、 さらに何か食べさせてもらった。 とても歓待されたのであるが、下宿からかなり遠かったこともあり、 頻繁に通うのはのは不可能だったので、数度行っただけであった。

周囲にも連珠をやる者を見つけられず、また連珠の世界に人を引っ張り込むこともできず、 いつのまにか止めてしまった。 確かに、対戦相手を見つけられなかったこともあるが、 連珠の対戦の厳しさも止めてしまった理由ではないかと思っている。 本当にちょっとしたミスが致命傷になる遊びである。 延々と先を読むことばかりが要求される。 確かに良い形とかあるにはあるが、それ以上にどこまで先が読めるかであり、 妥協のない遊びであった。

延々と先読みすればよいので、コンピュータ向きの遊びである。 プログラムを作ろうと思ったこともあるが、何しろ遊ぶ人がそれほどいない。 などなど、色々あってプログラムを作ることもしなかった。 ネット上にも連珠のプログラムが転がっており、 ずいぶん前に戦ってみたが非常に強かった。

連珠は、頭を使い過ぎることもあり、すでに遠い過去の思い出のゲームになっている。


2008/09/01 00:00:00

金転がし

前回は、田舎、児島、倉敷、岡山について書いたので、今度は東京編となるところだが、 そんなのはつまらないだろから、がらっと話題を変える。

初回は、「金転がし」である。 このタイトルから、今の人々はマネーを何とかして、 金儲けの話と思う訳だが、まるで違う。

小学生のころ、本当に町中に、正しくは村中に将棋板が転がっていた。 いざとなれば、授業中に将棋のコマを作って、適当に線を引いて将棋をする者もいた。 何しろ、大山康晴名人が出たような土地柄であり、囲碁よりも圧倒的に将棋が普及していた。

正式の将棋のことを「本将棋」と呼んでいた。本物の将棋である。 子供だった私は、本将棋ではなく、「金転がし」をやっていた。 名前は地方によって異なるようで、「周り将棋」という方が一般的ではないかと思う。

ルールは本将棋と違って簡単だ。各自のコマを将棋板の外周をぐるぐる回っていくだけだ。 金4枚を振って、表になった枚数だけ進めるのだが、表裏だけでなく、横に立ったり、 普通に立ったり、逆立ちしたりするのを競う。横で5、正立で10、倒立で100だったと思う。 周る駒も1周するごとに、歩→香→桂→銀→角→飛→王の順に昇進していく。 早く王で一周し終えるた方が勝ちである。 細かいルール、独自ルールもあったと思うが、もう覚えていない。

金転がしでは、重要なのは金4枚を上手に振って、何とか駒を立てないといけない。 指先の微妙なテクニックが重要であるが、将棋のように考えることはない。 しかし、なぜかやけに流行っていて、小学校の4年〜6年にかけては、 延々とやっていたような気がする。 このゲームによって得られたものは、指先の微妙な調整能力だけだろう。

ところで、こんなに将棋が盛んな地に育ちながら、なぜ将棋をやらなかったのだろうか。 大学に、同じ市内出身の大山一族の者が在籍しているのが分かり、家まで遊びに行った。 普通の家だったのだが、「将棋をやりますか?」と言われて、「金転がし」とも言えず、 何とか知っている程度の将棋の知識で指したが、一瞬で負けてしまった。

祖父は、夕食を食べ終わると、将棋を指しに毎夜自転車で出掛けていた。 しかし、家ではまったく打たず、教えてもくれなかった。 教えるより自分で楽しむのに忙しかったものと思える。 祖母は早くに亡くなっていて、祖父は寝るときだけは離れを使っていた。

ある日、なかなか祖父が帰って来ない。 あまりにも遅いので将棋道場に電話をしたら、 とっくに帰ったということで、皆で探したら、道路で倒れて亡くなっていた。 趣味の将棋を楽しんで、帰り道に亡くなってしまったのだから、 本望ではなかったのだろうか。

近年、コンピュータ将棋が強くなり、 将棋のトッププロも勝てなくなる日が来るのは時間の問題だ。 仕事柄、研究柄、興味を持っていた分野ではあるのだが、 すでに強くなり過ぎて、私の興味の対象ではない。

ということで、今回は遊び、ゲーム、盤上遊技について書く。


2007/03/23 00:00:00

五%を知らなきゃ岡山県人ではない

中学校までは、なんとか地元の公立校に通った。 そして、高校へ進学することになり、 地元の県立高校へとも思ったのだが、 同級生が多く、何もかもバレバレ状態を続けるのもどうかと思い、 都会の高校へ逃げ出すことにした。

岡山では、学区外の高校へ逃げ出す人のために、 五%(ゴパー)という制度がある。 定員の五%だけはよそ者を受け入れても良いという公式の制度があった。 都会から田舎の県立高校に進学する者はほとんど皆無なので、 この制度は、田舎者に都会(岡山または倉敷)の学校で勉強する機会を 与えるためである。

岡山では、大学よりも高校の方が就職などで重要視されることが多い。 そのとき、五%だったと言うと、特別扱いされる。 田舎から出てきて、苦労したのであろうと思われるようだ。 そして、色々なことが大目に見てもらえる。

当時、岡山市には3つの県立普通科高校があった。 どこを選ぶか考えたのだが、比較的中心部に近くて、 入試も楽そうで、勉強にうるさくなさそうな学校を選んだ。

作戦は成功し、入試で不合格になる者は2名しかいないことが分かった。 さらに、入学試験のときに1名がその場で不合格にされ、 これで合格ほぼ間違いなしと思い、安心して発表を見ることができた。

めでたく合格した高校は、 1900年開校の第一岡山高等女學校(一女)を前身とし、 戦後、第二岡山中学校(男子校)を吸収合併して共学になったが、 やはり圧倒的に女子の勢力が強い学校であった。 児島は繊維の町で、女子が圧倒的に多く、 地元の高校も高等女学校が前身である。 だから、おばさん連中は高等女学校卒で、 おじさん連中は尋常小学校卒が多かった。

今は瀬戸大橋線が開通し、児島から岡山までの通勤、通学は楽になったが、 当時はとても通えるような交通手段がなかった。 やむなく、地元を代表する山陽新聞社の偉い方の家にやっかいになった。 新聞配達はパスした。

卒業生の中には、 日本人女性初のオリンピックメダリスト 人見絹枝がおり、 中庭に銅像が建っている。 岡山は、有森裕子を始め、女子マラソンが盛んだ。 天満屋は岡山を代表するデパートだが、ここの陸上部も有名だ。 これら全ては人見絹枝の影響だろうか。


【高校の中庭にある人見絹枝の銅像】

全国初の女性国会議員の一人近藤鶴代は、科学技術庁長官として入閣、 玄関脇には石碑がある。 NHK連続テレビ小説「あぐり」のモデル吉行あぐりもいる。 とにかく、女性出身者には著名な人が多数いる。

同級生には、 木下大サーカスの社長がいて、 地元岡山で興行しているときに顏パスで入れてくれると言われたが、 行きそこねた。

吉備の国は、大和朝廷に対抗できるくらいの勢力を持っていて、 古墳や、由緒ある神社がいくつもある。 その中の代表的な神社で、日本書紀、古事記にも登場する 吉備津神社 の代々宮司だった家系の人とも同級生になった。 宿題に家系図を出されて、大変なことになったそうだ。 一度吉備津神社に行ったのだが、参詣するのを忘れて、 宮司の家で遊んだだけで帰ってしまった。 国宝を思う存分見られるのに、惜しいことをした。

その他の出身者としては、お茶の水女子大の土屋賢二教授(哲学)がいて、 ひねくれエッセーで有名だ。原田宗典の『十七歳だった!』を読めば、 私の通った高校が分かるかも知れない。

国語の時間に、読書感想文は正直に書けと言われた。 面白くない本だったら、いかに面白くないかを書けと。 こういう教え方が、このような変な作家を生んだ土壌だったと思える。

岡山の県民性だが、理論好き、悪賢い、冷淡、燃えない、利己的、 がめついなどがあり、大宅壮一は「日本のユダヤ人」と称した。 広島と比較されることが多いが、岡山県人は大阪の方しか向いていない。 でも、大阪商人には昔から扱いにくいと言われている。

県民性は悪く評価されるものだが、岡山はとくに評判が悪い。 他県にあれこれ言われるのに我慢できず、 『岡山人じゃが 〈ばらずし〉的県民性論』 を岡山ペンクラブが出版してしまうところが、いかにも岡山である。

岡山土産を列挙しておこう。マスカット(ワイン)、白桃、 つるの玉子(販売店舗が限られる)、 大手饅頭、 調布、きびだんご(近年種類が激増し把握不能)、 独歩(地ビール)、 酒一筋(日本酒、赤磐雄町米)、 ままかり(昔は貧乏人の食べ物)、備前焼、刀剣(備前長船)。 児島なら塩羊羮

児島、そして岡山について、少しは博学になったであろうか。 来週は、瀬戸大橋を渡って、讃岐うどん、団扇、瓦煎餅の香川である。


2007/03/22 00:00:00

著名産業はGパンのダメージ加工

町の産業は、前回説明した製塩業以外にも色々ある。 瀬戸内の中心地であり、鷲羽山という名所もあり、 それなりに観光客が来るので観光ホテルはいくつもある。 力士の鷲羽山はこの山にちなんでおり、同じ小学校出身である。 ボクシングの辰吉も同じというか、さらに近所である。

瀬戸内には競艇場がたくさんある。 内海のため、海が穏やかで、環境的に良いと思われる。 それとも、ギャンブル好きが多いのだろうか。 地元の小学生は、よく競艇場の中にも入って遊んだ。 正門から入ることもあれば、門でないところからもよく入った。 もちろん入場料を支払って入ったことはない。


【児島駅ロビーに飾ってある競艇用ボート、本物】

昔はボロボロの建物で存続が危うかった時代もあったが、 今は近代的なビルになり、巨大な駐車場が併設されている。 塩田跡地を駐車場にしたので、 あまりにも広く、暴走族がスピードを競ったので、障害物が多数並べられた。

線路幅が日本一狭い私鉄が走っていて 岡山まで行くのに利用していたが、 1972年に主要路線が廃止され、陸の孤島になった。 今は、全線撤去され、 毎年開催されるトライアスロンのコースに利用されている。

瀬戸大橋建設当時は、町始まって以来の建築ブームに沸いた。 橋だけでなく、道路も一気に整備された。 その影響で、親戚3軒は家を取り壊された。

1988年の瀬戸大橋完成にあわせて 瀬戸大橋線ができ、地元に突如JR児島駅ができた。 JR西日本とJR四国の接点の駅で、特急もほとんど止まり、 岡山へも四国へも簡単に行けるようになった。

自動車道と電車の併用橋なのだが、自動車で渡る人は非常に少なく、 児島のインターチェンジで降りて、フェリーで渡る車が多い。 一度、自動車道のジョイントの部分が外れたのだが、 車がそもそも走っていないので事故にならなかった。 盆と正月以外は、混雑したことがない。

お客が遠方から来ても、大切なお客だったら橋を渡って讃岐うどんを 食べに行ったりするが、 普通のお客だったら途中の与島で観光して引き返し、 どうでも良いお客だったら、鷲羽山に登って瀬戸大橋を見せるだけだ。

さて、この町の代表的な産業は繊維産業、とくに縫製が盛んである。 戦後すぐは、学生服の日本最大の生産地として栄華を極めた。 全国の中学から、女工さんを集めてミシン仕事などを延々とやらせていたが、 それも私の学生の頃で終った。 学生服を誰も着なくなったのだ。

毎日の様に、倒産や工場閉鎖の話が子供の耳にも飛び込んで来た。 幸運なことに、ちょうどこの時期に、 当時東洋最大と言われた水島コンビナート (製鉄、自動車、石油精製、造船、化学、電力など)が動きだし、 失業者を吸収し、さらに労働力を必要とした。

地元の繊維業者は、業種変更あるいは繊維での別の生き方の摸索を始めた。 繊維からコンピュータ関連に変更して成功したのが サンワサプライ。 多くは、スポーツウェア、オフィスウェア、作業服など 繊維での路線変更をした。


【BIG JOHNの工場】

最近はGパンの町として名高く、たくさんのブランドがある。 Gパンは作るよりも、どのように加工するか、 どうダメージを与えてボロボロにするかが重要なようだ。 ボロボロにする方法は極秘事項で、 日夜こっそり研究に励んでいると聞いている。

このように、あきれた加工がされたものが 東京のデパートで非常に高く売られているのを見ると、 世の中ずいぶん狂ってきたものだと思う。


2007/03/20 00:00:00

異常乾燥による山火事が名物

児島というのは、その名の通り、島である。 今では本州の一部になっているが、 源平藤戸合戦(1184年)のころ、児島と本州の間には藤戸海峡があり、 源氏の武将佐々木三郎盛綱は、馬で浅瀬を渡った。 不意をつかれた平家は、次の合戦場となる香川県の屋島へ逃げたのだった。

児島は、東西20km、南北10kmくらいの島で、東半分が玉野市、 西半分が児島市、その他が児島郡であった。 この島の気候は極めて温暖で、年間降雨量は1000ミリを切り、 瀬戸内でも特別に乾燥度の高い地域である。

名物は山火事で、数年に一度はある。 児島付近の山は禿山で、欝蒼と繁った森ではないが、 それでも山火事は非常に危険だ。 子供の頃から地元の自然に慣れ親しんでいる者は逃げ方を知っているが、 最近はそうでもない人々が増え、巻き込まれて不孝な事件も起きている。

さすがに山火事は規模が大きく、小規模でも何ヘクタール、 大規模だと複数の山に飛び火して何百ヘクタールも燃え、 全国ニュースになる。

瀬戸内式気候は地中海式気候に似ていて、オリーブが良く育つ。 中学校のグラウンドはオリーブの木で囲まれていた。 給食にオリーブが出てくることもあったが、どんな味だったか記憶にない。 バナナの木もあったが、小さな実しかできなかった。

乾燥を利用したものとして、塩田があった。 強い日差しの下、わずかに傾斜した塩田に海水を流して蒸発させ、 さらに笹の間に塩水を滴らし、 風と太陽を利用して濃縮し、最後は釡で煮つめて塩を作っていた。 しかし、昭和40年代中頃に廃止になった。

こんな町だったので、子供の頃、塩を買いに行くのを手伝わされた。 1袋が30kgもあり、一度に10袋以上買うので、重労働だった。

中学の隣にマラソン練習コースがあり、1周が2.3kmあった。 本番のコースは峠が3つもある9.2kmのコースで、 女子も全員走る。何とか女子には抜かれないようにと思うのだが、 なかなかそうもいかない。

練習コースの内側は塩田で、走っていると塩の泡がよく飛んできた。 塩田は海岸に沿って発達しており、巾数百メートル、長さ何キロにも及んだ。 練習コースの塩田は埋め立てられ、その中には、 JR西日本とJR四国を繋ぐJR児島駅が存在し、 市民病院、郵便局、ショッピングセンター、 ファッションセンターなどが建ち並ぶが、 まだまだ空き地だらけである。

児島には塩田王がいる。その名を野崎といい、 商店街の入口に記念碑がある。 明治20年に建てられ、個人の顕彰碑としては日本最大で、 全長18mを越し、敷地も1000坪を越す。 野崎邸という 床面積1000坪に及ぶ蔵屋敷もあり、観光地になっている。 瀬戸大橋を通る瀬戸大橋線が開通したときに 博覧会が開催されたが、それも塩田王の土地の一部で行なわれた。 というか、今も町の主要部は塩田王が所有している。


【塩田王の記念碑・日本一の規模】

中学校は、元は塩田だったために、色々な問題が発生した。 塩田は、海岸に堤防を築いて作り、塩田は海面より低くすることで、 海水を取りこみやすく作ってある。 戦後すぐに作られた中学で、 塩田に少し土を盛っただけなので非常に土地が低く、 満潮と雨が重なると、たまった雨水を水門を開けて海に流せなくなる。 ポンプもあったが、非力で役に立つようなものではなかった。

その結果、中学校が水没した。膝下程度で済むのだが、 水洗になっていないトイレもいっしょに水没してしまい、 何もかもいっしょになってしまった。 雨は少ないので、こんなことになるのは年に一度程度だったのが せめてもの救いだった。


2007/03/19 00:00:00

江戸時代の古家に生まれて

岡山というと、どういうイメージがあるのだろうか。 一般には、桃太郎、きびだんご、マスカット、ままかり、 後楽園、倉敷美観地区、大原美術館、 吉備路、竹久夢二 などが知られているのではないだろうか。

岡山は、県北と県南で季候、風土、人間性まで大幅に異なると言われている。 県北は横溝正史の『八つ墓村』のような恐ろしい世界か どうかさえ県南で育った私は知らない。運転免許を取ってすぐのころ、 国道を通って県北まで遊びに行ってみようと思ったが、道路脇に 「初心者通るべからず」の立札があり、 恐くなって引き返した。 それ以来、県北には近づくことさえしていない。 せいぜい、高速バスで帰省したとき、通過したくらいだ。

2006年11月に、県北の中心地津山市と岡山市を結ぶ JR津山線で落石事故があり、復旧工事が難航している。 鉄道だけでなく道路も不通となり、県北との往来は困難な情况にある。

生まれた県南は、瀬戸内海のほぼど真中で、瀬戸大橋児島坂出ルートの 児島である。昔は児島市だったのだが、 現在は倉敷に合併されたことになっているが、 児島の人間は今でも倉敷の一部だと意識していない者が多い。

そもそも合併の動機が不純である。 高梁川河口の浅瀬を埋め立てて水島コンビナートを作ろうとしたのだが、 そのとき倉敷市、児島市、玉島市の境界線が不明になった。 つまり、境界問題を合併でもみ消した訳である。 倉敷は備中国、児島は備前国で、歴史も季候もかなり異なる。

生まれた家はとても古い。 いつ建てられたかはっきりした記録もない。 江戸の中期頃で、1700年代中頃と思われる。 こんな古い家なので、私が生まれた頃と今とでも、 古さに違いはあまりない。

梁は太く曲った木をそのまま使っている。 昔の大工は、こんな曲った木をそのまま使って 何百年も持つちゃんとした家を建てるのだから優秀だったと思う。 田舎では、200年程度の古さの家はいくらでもあるので、 この程度では文化財にも何にもならない。 瀬戸大橋の真下に広がる下津井という港町は、 奈良時代から栄えていた風待ち港で、 文化財候補で溢れている。

うちの寺は、697年開基し、 延暦23年(804)に坂上田村麿が再興したと伝えられている 真言宗御室派のとても歴史の在る寺で、 総本山の仁和寺は仁和2年(886年)に創建に着手したのだから、 総本山よりよほど由緒正しい寺らしい。 先代の住職は、晩年は総本山の高僧になられたが、 そんな偉い方だとはつゆ知らず、いつも適当に挨拶していた。 この寺で、なんとクリスマスパーティをやったことさえあり、 寺の息子も参加した。

10年ほど前、自宅の蔵の中を整理していたら、『明治新刻 廣集玉篇大全』 という木版の字引きが出土した。今から110年前の木版の字引きだ。 この辞引きを探し当てた頃、日本語情報処理、漢字情報処理の 仕事をしていたのも何かの因縁を感じる。


【蔵から発掘された字引「廣集玉篇大全」】

こんな家だが、小学生のころから 鋸、金槌、鉋、ドライバー、ペンチはもちろん、 半田ゴテ、万力、グラインダー、バールなども転がっている中で育った。 お陰で、買ってもらった玩具はその日の内に分解し研究しつくした。 プログラムを作り始めたころも、同様にして延々と解読する日々で、 こういう習性は子供の頃についてしまったようだ。

先日、屋根に穴が開いたと連絡が来た。 戦後防空壕の材木などを利用して増築したとか聞いている部分で、 作りが悪く、たった60年しか持たなかったようだ。 母屋の瓦は35年程前に葺き直し、まだ新品同様なので、 私が生きている間は大丈夫でいてくれと祈っている。

母屋の2階には2つ部屋があるのだが、 一方の部屋へは生まれてから一度も入ったことがない。 昔は上がるための階段を天井から下ろすようになっていたが、 その階段がいつの間にか無くなっている。 この部屋は古いので何かヤバイ物が出てくるかも知れないので 当分放置の予定だ。

カニの折り紙

正方形の紙を折っただけで、ハサミは使っていない。 非常に薄くて丈夫な和紙でないと無理だ。 コンピュータを始めてからは時間がなく、こういう複雑な 折り紙はまったくしていない。 実は現在、国の支援で日本文化の代表である折り紙の コンピュータシミュレーションの研究が行なわれている。


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