電脳春秋 – 〈第 11 回〉 パソコン業界なのにワープロ利用を否定する人々


電脳春秋

執筆:H.F

〈第 11 回〉 パソコン業界なのにワープロ利用を否定する人々

この雑文もそうだが、今ではコンピュータなしでは文章を書けなくなってしまった。私の場合、ワープロソフトではなく、エディタを使う。提出文章、メール、自分のメモはもちろん、プログラムも含めて全部エディタを使って作っている。ワープロのフォント変更機能は、文章を書くときは煩わしく、それよりキー入力の反応が早いエディタを使う。

私がこの業界に首を突っ込んだのは、まだ日本語ワープロが発明される前だった。雑誌や本、ときにはメーカーのパソコンマニュアルの原稿を、原稿用紙に鉛筆でコツコツと書いていた。小さな書き間違いは消しゴムや、修正液で直した。文章全体の順序を変えるなど、広域にわたる変更は、コピーして、ハサミとノリで原稿を切り貼りした。

日本語ワープロの第 1 号は、 1978 年に東芝が定価 630 万円で発売したワープロ専用機 「JW – 10」であるが、これには触らなかった。 1980 年には、富士通から親指シフトの日本語ワープロ 「OASYS 100」が発売された。定価は 295 万円とかなり下がったこともあり、会社で 1 台導入したので、とりあえず何ができるか色々遊んでみた。

当時はまだ 「日本語ワープロ」という言葉はなく 「日本語電子タイプライタ」と呼ばれていた。直接文章を書くのではなく、あくまでも編集が容易な和文タイプライタのイメージで、手書き原稿を OL に渡して清書させるというのが、普通の人々の認識だった。

私は、立場上、新しいマシンが持ち込まれると、とにかく引っかき回して、どの程度のマシンか評価するのも仕事だったので、まずは親指シフトの練習をし、それからあれこれ編集してみた。何か操作すると、フロッピーがカチンカチンと音を立てるというのんびりした時代だったが、それでも適当に書いておき、あとで文章の順序を変更できるなど結構便利なことがわかり、 OASYS の前に座ることが多くなった。

パソコン系の出版社にいたのだが、なぜかワープロをいじっていると仕事をしていないように見られることも多かった。それどころか、ワープロでは文章など作れない、文章は鉛筆と消しゴムで作るものだと言い張る編集がいた。今から考えれば馬鹿な話だが、まだそういう時代で、ワープロを喜んで触る技術者は異端児だった。

OASYS に少し慣れてきたら、マニュアル 1 冊まるごと作ってみた。販売予定のパソコンソフトの操作マニュアルで、頑張って印刷するほど売れるとは思えなかったので、ワープロで作り、プリントアウトしたものを印刷し、それなりの製本をした。どれだけ売れたかは知らないが、その経験で、簡単なマニュアルなら、ワープロは大変便利だと思った。

今では、原稿をワープロやエディタで書き、メールで送ると、編集部は編集ソフトに原稿を流し込むだけでかなりの作業が終わる。原稿用紙や FAX で送られてくると、原稿入力作業が発生し、入力ミスのチェックが大変だ。原稿用紙に小説を書くことは、今では大作家だけに許される特権である。インターネットの発達で、入稿したら数時間後にはレイアウト済の校正依頼がメールで送られてきて、著者は一服する暇もない。