電脳春秋 – 〈第 6 回〉 インターネットの前身である JUNET の初期利用者に


電脳春秋

執筆:H.F

〈第 6 回〉 インターネットの前身である JUNET の初期利用者に

1980 年代前半は、パソコンブームもあり、出版やソフトの開発販売の仕事が多かったが、以前からやりたかった UNIX に自由に触れる仕事場を見つけて所属を変え、 1980 年代半ばからは UNIX 用のソフト開発が中心になった。まだまだ UNIX 利用者は少なく、情報も多くは英語のままであったが、翻訳を信じていると痛い目に合うことも多く、結局はオリジナルの英語の情報にあたることも多かった。東京なのに、 UNIX 技術者集団の中では関西弁が飛び交っていたのも不思議であった。

最初の頃は仮名漢字変換ができないどころか、漢字を表示するためのフォントすら用意されていなかったので、私の所属チームとは別のチームが、日本語が扱える UNIX 用のウィンドウシステムなどを開発していた。もちろん、 UNIX 用の日本初の漢字フォントも開発されていた。

社内的なやり取りは最初から UNIX のメールが普通に使われていて、口で言ったことよりメールが正式の通達手段というところであった。先端技術に関しては非常に尖った会社であり、こちらとしては大変居心地が良かったので、本来籍のある会社に出社するのは月例会くらいで、あとは尖った会社の方に席を設けてもらい毎日顔を出し、数十万行におよぶプログラムを数名で作り上げていた。

日本のインターネットは、その前身として、 JUNET ( ジュネット ) という学術的なネットワーク実験が始まり、最初は数大学と、数企業が繋がっていただけであった。企業の場合、ドメイン名は .co.jp で終わっているのが普通であるが、当時は .junet で終わっていた。偶然居合わせた企業が、たんなる参加企業にとどまらず、運営の中心的な役割を果たしていたこともあり、会社にいる人は誰でも使えた。

今なら、ソフト開発会社でインターネットの専用線は当然であろうが、そういう会社にいても、 UUCP といって、一定時間間隔でセンターに自動的に電話をかけ、たまっているメールを渡すという何とものんびりしたネットワークだった。接続時間前なら、出したメールの削除もできたが、今ではメールは数秒以内で相手に着くので、失敗ができなくなった。 UUCP での接続は、中小だけでなく大企業でも普通に行われていて、センターへのこちらの接続時間が大企業の接続時間より若干早かったため、大企業側の接続が毎回失敗に終わるが、大企業側では時間設定の変更できる人がいないので変更して欲しいなどという話もあった。インターネット関連技術者がほとんどいない時代だった。

それでも、世界中の情報が入ってきて、開かれた世界を見ることができた。日本語情報処理に関する議論など、日本人は日本語で書き、日本語は読めるけれど書くのは面倒という人は英語で書くという日本語英語ちゃんぽんでの議論が太平洋を挟んで行われ、 『 日本語情報処理 』 という本がアメリカで出され、活発に議論していた人々の名前は協力者として掲載された。

当時現場で活躍した人々は、教育研究分野、あるいはインターネットビジネス分野で主要な地位にいる人も多いが、今も新しいことに挑戦してしまうようだ。詳しいことは、岩波新書 『 インターネット 』 を参照されたい。